日本のイベント・行事・記念日・風物詩 5月
5月のイベント・行事・記念日・風物詩
メーデー(5月1日)
メーデーは、5月1日に世界各地で行われる労働者の祭典のことです。
80以上の国が5月1日を祝日として定めていますが、日本では5月1日に近い土日に開催するそうです。労働者の権利を主張する日ということで、自分の働き方を見つめなおすきっかけになるかもしれませんね。
八十八夜(5月2日ごろ)
「♪夏も近づく八十八夜~」という歌いだしから始まる歌を聞いたことはありますね。
ついつい口ずさんでしまいます。タイトルは「茶摘(ちゃつみ)」という歌です。
歌に出てくる八十八夜(はちじゅうはちや)とは何?
八十八夜の意味
八十八夜は雑節(ざっせつ)のひとつです。
雑節とは、二十四節気(にじゅうしせっき・1年間を24等分したもの)や五節句(ごせっく・季節の節目の行事)のほかに、季節の移り変わりをより適確につかむために設けられた特別な暦日(れきじつ・こよみで定められた日)で、二十四節気の立春(りっしゅん)から88日目を八十八夜といいます。
八十八夜は春から夏に移り変わる節目の日、夏の準備を始める日、縁起のいい日といわれています。
農家では八十八夜を過ぎれば晩霜(ばんそう・初夏のころに降りる霜)も終わり、気候が安定することから、種まきや茶摘みなど農作業開始の基準としています。
立春から88日目を夜という理由
日本では明治5年(1872年)に改暦が行われました。
それまでは旧暦は月の満ち欠けを基準にした暦でしたが、改暦によって現在の、太陽を基準にした「太陽暦(グレゴリオ暦)」という暦になりました。
「八十八夜」は太陽暦になる前、月の満ち欠けを基準に日にちを数えていた時代から使われており、そのころは「夜」を基準に考えていたため「88日目=八十八夜」になったといわれています。
八十八夜とお茶との関係
「茶摘」という歌の歌詞には「あれに見えるは茶摘じゃないか」という部分があり、この歌が八十八夜=お茶というイメージを定着させたと考えられています。
実際には、茶摘みの時期は産地やその年の気候で異なります。お茶の葉は冬の間に養分を蓄え、春になると少しずつ芽を出します。いち早く芽吹いた茶葉を収穫して作ったお茶を「新茶・一番茶」といい、その後摘まれる茶葉より栄養価が高いといわれています。
そのため「新茶を飲むと病気にならない」とか「八十八夜に摘まれたお茶を飲むと長生きできる」と考えられています。
新茶・一番茶が4月下旬から5月中旬にかけて摘まれます。ちょうど、八十八夜の頃です。
二番茶は6月上旬~7月上旬、三番茶は7月末~8月上旬です。産地によっては四番茶、秋冬茶などもあります。 八十八夜とお茶の関係は、歌が大きく影響していることがわかりました。
毎年新茶の季節には、茶畑で手摘みで茶摘みをする姿を見ることができます。
二番茶、三番茶などは機械で摘むことが多くても、新茶・一番茶は、現在でも人の手で丁寧に摘まれるそうです。ちなみに、新茶と一番茶は、呼び方が違うだけで同じものです。
産地やメーカーによっては、新茶・一番茶を低温保存して一年中楽しめるようにしていますが、この時期にしか楽しむことのできない旬のものとして、ゆっくりとお茶をいただくのもいいです。
憲法記念日(5月3日)
「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」ことを趣旨とし、日本国憲法が昭和21年(1946年)11月3日に公布され、昭和22年(1947年)5月3日に施行されたことを記念して、昭和23年(1948年)に「憲法記念日」という祝日として制定されました。
日本国憲法の3つの基本原則
国民主権
憲法の前文の、「国の政治のあり方を決める力は、わたしたち国民にある」の部
分は、国の政治を最終的に決める権利(主権)が国民にあること、つまり国民主権
(主権在民ともいう)の原則を示しています。20才以上の人に選挙権があたえられたり、選挙で選ばれた国民の代表が国の政治を行ったりするのは、この原則によるものです。1889年に発布された大日本帝国憲法では、主権のことを「統治権」といい、「統治権」は天皇がもつ、という「天皇主権」の原則でした。今の日本国憲法では、天皇は「日本国の象徴 」「日本国民統合の象徴」とされています。
平和主義
日本国憲法第9条では、国々の間で争いが起こっても、決して戦争をしないことや、この目的を達成するために陸軍・海軍・空軍などの戦力をもたないことを定めています。第2次世界大戦で、国内・国外のたくさんの人々を死なせたり、苦しませたりしたことへの反省から、憲法に取り入れられた原則です。
基本的人権の尊重
これは、人間はだれでも生まれながらにもっている、人間らしく生きる権利を大切にしようという意味です。
基本的人権には、
自由権
思想・良心の自由、信教の自由、学問の自由、表現の自由、職業選択の自由など
平等権
差別的なあつかいを受けない権利
社会権
生存権(健康で文化的な最低限度の生活をいとなむ権利)、教育を受ける権利
参政権
選挙権、被選挙権
請求権
裁判を受ける権利など、といった権利がふくまれています。
みどりの日(5月4日)
4月29日が昭和天皇の誕生日だった「みどりの日」です。平成17年(2005年)の祝日法改正により、4月29日は「昭和の日」、5月4日が「みどりの日」になりました。
みどりの日には、日本各地で自然にしたしむイベントが行われたり、国公立の動物園や公園、植物園などが入園無料になったりします。
こどもの日(5月5日)
端午の節句(たんごのせっく)ともいわれ、鯉のぼりや五月人形などを飾り、男の子の健やかな成長を願います。
菖蒲湯に入ったり、粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べます。
端午の節句の意味と由来 柏餅、粽(ちまき)を食べる理由
5月5日は「端午の節句(たんごのせっく)」です。
「こどもの日」でもあるので、ほとんどの方がご存知だと思いますが端午の節句の意味や由来までご存知ですか?端午の節句には、柏餅や粽(ちまき)を食べる習慣もありますが、その理由は?今回は、端午の節句についていろいろ調べてみました。
端午の節句の意味
5月5日は国民の祝日の一つである「こどもの日」です。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨とし、1948年に制定され、それ以前は「端午の節句」と呼ぶことが一般的でした。
端午の節句は五節句(ごせっく)のひとつです。
「端午」の語源ですが、「端」は物のはし、つまり始まりという意味があり、もともとは月の最初の「午(十二支のひとつ)」の日を節句として祝っていたのですが、その後、旧暦の5月が午の月にあたりることと、「午」は「五」と読めることや縁起のいい陽数(陰陽思想における奇数のこと。特に3,5,7,9)が重なることなどから、5月5日が端午の節句となったのです。
五節句とは、江戸時代(1603年~1868年)に「重要な年中行事」として制定されたもので以下のものをいいます。
1月7日の「人日(じんじつ)の節句」
3月3日の「上巳(じょうし)の節句」
5月5日の「端午(たんご)の節句」
7月7日の「七夕(しちせき)の節句」
9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」
もともと端午の節句は中国の風習でした。
中国では旧暦の5月は病気が流行しやすかったことから「5月は悪月」と言われていました。
5月の中でも5日は「5が重なるから悪月の悪日」とされ、厄除けのために菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を門に挿し、菖蒲を浸したお酒を飲んで厄除けや健康祈願をしていました。
この風習が奈良時代に日本に伝わってきました。
このころ日本では、田植えの時期である5月になると、豊穣を祈願するために若い女性たちが神社に籠って田植えの前に穢れを祓う「五月忌み」という風習がありました。
同じように菖蒲を厄除けに使ったことから、中国から伝来した端午の節句と結びついていきます。
鎌倉時代になると、武道を重んじるという意味のある「尚武(しょうぶ)」と、厄除けに使っている「菖蒲(しょうぶ)」が同じ読み方であることから武士の間では縁起が良いと盛んに行われるようになり、端午の節句は別名「菖蒲の節句」とも言われるようになりました。
江戸時代になると幕府が年中行事として定られ、庶民にも広まっていきます。端午の節句は、奈良時代には女性が行うものでしたが、武士の間で縁起が良いものとされ、時の流れとともに変化し、江戸時代には男の子の誕生と成長を祝う節句として定着します。
柏餅、粽(ちまき)を食べる理由
柏餅(かしわもち)は、日本独特の習慣です。柏餅には、柏が使われています。
柏の木は、古くから神が宿る木といわれており、新芽が出で育つまで古い葉が落ちないことから「子どもが成長するまで父母は亡くならない」とされ、「跡継ぎが絶えない」、また「子孫繁栄」を象徴し、端午の節句の縁起の良い食べ物となったようです。
粽(ちまき)は、端午の節句と共に中国から伝わったものです。
中国の故事が由来とされ、国王の側近として仕えていた屈原(くつげん・中国の詩人、紀元前343年~278年ごろ)はその正義感と国を思う強さで人々から大変慕われていましたが、陰謀によって国を追われ、川に身を投げてしまいます。身を投げた日が5月5日といわれています。屈原の死を悲しんだ人々が5月5日に竹筒に米を入れ、それを川に投げ入れて弔いましたが、屈原の手元に届く前に蛟龍(こうりゅう)という龍に取られてしまいました。
そこで龍が苦手にしている楝樹(れんじゅ)という葉でもち米を包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ってから川へ流すようにしたところ、無事に屈原の手元に届くようになったそうです。
それから中国では5月5日に粽を作って災いを除ける風習ができ端午の節句とともに日本に伝わりました。
粽に結んだ赤・青・黄・白・黒の五色の糸は、子供が無事に育つようにとの魔よけの意味を込められており、鯉のぼりの吹流しの色に反映されています。
端午の節句に柏餅や粽を食べる理由がわかりましたね。
お子さんのいるご家庭では、柏餅や粽を食べるときには、お子さんにその由来をお話して聞かせてあげると、古くから伝わる風習に興味を持ってくれるかもしれませんね。
梅雨入り(5月)
最初に梅雨入りするのは、5月9日ごろが平年値の沖縄県です。
その後、少しずつ北上していきます。関東地方では6月の中旬位だそうです。
母の日(第2日曜日)
お母さんに感謝の気持ちを伝える日です。
カーネーションだけではなく、家電を贈ったり、美味しいものを食べに行ったり、旅行に行ったりと、いろいろな贈り物があります。普段頑張ってくれているお母さんに、この日くらいはゆっくりしてもらいたいです。母の日にはどんなことをしていますか? カーネーションを贈るのが定番の母の日ですが、料理が出来る方なら日ごろの感謝を込めて手料理を振舞ったり、連休を利用してひと足早い温泉旅行へ招待したり、この日だけは一切の家事をお父さんと子どもたちが頑張ってみたり、それぞれの何かの形で感謝の伝えては如何でしょう。
母の日の由来や意味
母の日は「お母さんに感謝を伝える日」という意味があります。
日本やアメリカ、ドイツなど多数の国では、5月の第2日曜日が母の日です。
しかし、世界中で母の日の起源が様々あり、日付が異なります。
たとえば、ノルウェーでは2月の第2日曜日ですし、フランスやスウェーデンでは5月の最終日曜日です。ここでは、日本の母の日の由来について書いていきます。
日本では、明治時代(1868年~1912年)の末頃にキリスト教の行事として、日本で初めての母の日が行われたといわれています。大正時代(1912年~1926年)になると、キリスト教関係団体を中心に、教会でのお祝い行事として広まっていきました。
昭和6年(1931年)に、大日本連合婦人会が結成されたのを機に、皇后の誕生日である3月6日を母の日と定めました。そして、昭和24年(1949年)ごろから、アメリカに倣って5月の第2日曜日が母の日となり、これが一般的になったといわれています。
日本の母の日は、アメリカを起源としています。1905年5月に、アメリカのアンナ・ジャービスという少女の母親が亡くなりました。アンナは自分を懸命に育ててくれた母を追悼したいと考え、1908年5月の第2日曜日に追悼会を開きました。そのときアンナは、母の好きだった白いカーネーションを祭壇に飾りました。このことから、お母さんが亡くなっている場合には白いカーネーションを飾り、お母さんが健在の場合は赤いカーネーションを贈るようになったといわれています。
アンナの行動がアメリカ国民を動かし、1910年にウエストバージニア州で母の日が認定され、1914年にはアメリカ連邦議会が5月の第2日曜日を母の日とする法律を作りました。そして、1915年に世界で初めて、母の日が国民の祝日になりました。
日本に広めたのは森永製菓
昭和6年に、大日本連合婦人会が結成されたのを機に、皇后の誕生日である3月6日を母の日と定めましたが、その後も日本ではあまり普及しませんでした。
そこで、昭和11年(1936年)に森永製菓が各団体に協力を呼びかけ「母の日中央委員会」を設立し、翌年昭和12年(1937年)には「母をたたえる歌」を募集し、5月8日に、第1回「森永母の日大会」を豊島園で開催しました。
このとき、20万人ものお母さんたちが無料で招待され、招待券には豊島園の入場券引換券や、森永のお菓子引換券、福引券などがついており、園内では「母をたたえる式」が行われ、子どもたちと遊具に乗ったりゆっくりしたりと、楽しく過ごすお母さんたちでにぎわったそうです。その様子が新聞や雑誌で大きく取り上げられ、母の日は日本中へ広がったといわれています。 世界各地で母の日はありますが、その起源や日付が異なります。
しかし、お母さんへ感謝の気持ちを伝えたい!という心は、どの国も変わらないのでしょう。2020年の母の日は、5月10日(日)です。我が子が感謝の気持ちを伝えてくれるのを喜ばないお母さんはいないと思います。みなさんの感謝の気持ち、しっかり伝えては如何でしょう。
祝日が続くゴールデンウィークが5月の初めにあるので、ゴールデンウィークが終わってしまうとちょっと寂しくなったり、気が抜けて五月病になってしまう人もいらっしゃるかもしれません。ですが、新年度はまだまだ始まったばかりですから、無理のない範囲で、気を引き締めて頑張っていきたいです。